縄文人から始まる世界の土器文明

縄文土器 未分類

 縄文人の足跡の一つとされているのが、フランス人考古学者ジョゼ・ガランジェ
氏が南太平洋上に浮かぶバヌアツで発見した14点の縄文土器です。

 バヌアツは、ニーギニア島の東端からさらに東南に2千キロほども離れた諸島で
す。そんな所から日本の縄文土器が出るはずはないと、一部の日本の考古学者らが
主張しているようなのです。曰く「慶應大学考古学教室の関係者が、フランスの考
古学者に縄文土器をサンプルとして寄贈し、それがパリの人類博物館で間違えて登
録された可能性が高い」などと主張されています。

 しかし、ガランジェ氏は「登録ミスはなかったと信ずる」と主張しており、一方
の慶應大学の「関係者」は名前すらも公表されていません。単なる憶測に過ぎな
い、と澤田氏は批判しています。

「縄文人にはそんな遠距離の渡海などできるはずがない」という先入観から、こん
な憶測でその後の研究を封じてしまうようでは、学問の進歩はありません。ガリレ
オが地動説を唱えても「そんなはずはない」と否定した宗教裁判と同様です。

 逆に、それがありうるとする論拠を澤田氏はいくつも挙げています。ツバルを西
端として南太平洋に広がる海域、ポリネシアの島々を旅した18世紀に旅した
ジェームズ・クック船長は「この広大な大洋に浮かぶすべての島々に、同一の人種
が住みついたのは驚くべきことである」と書いています。すでに人々は前近代の船
で、南太平洋の島々に移住していたのです。

 彼らが使っていたカタマラン船は全長17メートルから30メートルあり、二つ
の船体が甲板で繋がれていました。1976年に、カタマラン船を復元した実験航海が
行われ、35日でハワイからタヒチまでの4500キロを渡りきりました。とすれば、
縄文人たちが同様に南太平洋まで行き来していた可能性も、一概に「そんな事はあ
り得ない」と切り捨てる事はできません。

■3.丸木舟で外洋航海は可能となった

 そもそも縄文人は、3万8千年以上前にボルネオ島(別名カリマンタン島)のあ
たりから、丸木舟に乗って、フィリピン群島、台湾、琉球列島を経由して日本列島
にやってきたと考えられています。

 縄文人に最も近い末裔とされるアイヌの習俗や楽器、織物技術、道具などは、カ
リマンタンの諸民族と共通しています。またアイヌ犬は一般的な日本犬と異なるD
NAを持っており、それは沖縄、台湾、ボルネオ島にいる犬種と共通だといいま
す。[澤田、p14]

 琉球列島には100キロ以上の距離がある海峡が二つあります。行く先の島が水平
線に隠れて見えない、この距離を原始的な船で越えられるのかどうかが、カリマン
タンからの渡来説を検証するキーポイントです。

 この渡海が可能である事を実証したのが、国立科学博物館の海部陽介教授の「3
万年前の航海徹底再現プロジェクト」でした。男女5人が乗った丸木舟が、台湾を
出発して黒潮を超え、水平線の彼方にある与那国島まで225キロを漕ぎきったの
です。

 ところで水平線の彼方で目的地が見えないのに、どうしてそちらに行こうとした
のでしょうか。これは渡り鳥であるツバメの大群を見たからではないか、と推測さ
れています。南方の島々に住むツバメは、春になると北の空に旅立ちます。そして
台湾-琉球列島-本州-北海道というルートで飛び、秋になると戻ってきます。ツ
バメが飛ぶ北方にも大地があると太古の人々は考えたのでしょう。

 実際に、北部九州の古墳壁画には、人が乗った船の舳先(へさき)に鳥がとまって
いる姿が描かれています。鳥の案内に導かれて、航海しているのです。

■4.丸木舟を作るための磨製石器

 また、丸木舟で、というのは、筏(いかだ)ではスピードが出ず、黒潮を乗り越え
て行くことができないからです。しかし、丸木舟を作るには、大木を切り倒し、そ
の木をくりぬく道具が必要です。その道具が石斧(おの)で、刃の部分を薄く研いだ
刃部磨製石器です。

 日本列島では3万8千年も前の磨製石器が、1000点以上も出土しています。ヨー
ロッパで磨製石器を使い始めるのはせいぜい1万年前なので、比較にならないほど
日本の方が先行していたのです。

 したがって、縄文人の祖先は、カリマンタンで刃部磨製石器を使って丸木舟を作
り、黒潮を乗り越えて、日本列島に辿り着いたと考えられます。

 縄文人たちは、伊豆半島から50キロも離れた神津(こうづ)島で採れた黒曜石
を、黒潮を横断して本土に届けていました。また、琉球列島で採れた南海のイモガ
イが青森県の三内丸山遺跡で見つかっています。沖縄から北海道まで日本全土で同
じ遺伝子を持った縄文人が住んでいたことを考えると、彼らは丸木舟で日本全土を
自在に動き回り、交流・交易していたと考えられるのです。

■5.南米太平洋岸で発見された九州・曽畑式の土器

 世界最古級の土器が日本で出土しているのは、弊誌でも何度かご紹介しました
が、澤田氏は「縄文土器を作り始めたあとは、長期航海もずいぶんと便利になった
ことであろう」と述べています。船に土器を積んでおけば、航海中に雨が降り、魚
が捕れた際に、土器に水や食料を貯めておけます。丸木舟で外洋航海するのに、土
器を積んでいくのは、当然なのです。

 そもそも、なぜ日本列島で世界最古級の土器が作られたのか。澤田氏は極めて説
得性のある仮説を述べています。

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 ではなぜ日本民族にだけ、土器作りの発想が生まれたのであろうか。それは日本
が火山国だからだと考えられる。火山から流れ出た、ドロドロに溶けた溶岩が冷え
て固まると、そのままの形で硬い塊となる。そこからヒントを得たのではないだろ
うか。[澤田、p145]
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 南米エクアドルの太平洋岸、ガラパゴス諸島の対岸にあたるバルディビア遺跡で
5500年前の土器が出土していて、それが九州の曽畑(そばた)式土器と酷似していま
す。曽畑式とは縄文土器の中でもある程度進化した様式ですが、それが突然、出現
しているのです。しかも、エクアドルだけで。

 ある程度進化した土器が突然現れた、ということは、どこからか土器の技術を
持った人がやってきて、そこで土器を作り始めた、というのが、最も合理的な仮説
です。

 そして、その人々が海から南米大陸に到着したというのは、間違いないと考えら
れています。当時の北米大陸は巨大な氷河がカナダ一帯を覆い尽くしていて、ベー
リング海峡を通って渡ることは不可能でした。

 また、ヨーロッパ人がポリネシアに足を踏み入れたときにはすでに、南米原産の
サツマイモを南太平洋全域で栽培していたという事実から、ポリネシアと南米大陸
との間で往来があった事も間違いありません。

 さらに、南半球には熱帯循環という海流が反時計回りに循環しています。この東
向きの海流に乗って南米に行く、また西向きの海流に乗って戻る、ということで、
南太平洋での往来はかなり楽になるでしょう。

 これらの事実を踏まえれば、縄文人が南米大陸に行っていた、という仮説も、荒
唐無稽とは思えなくなります。

■6.中国古代文明に残された縄文人の足跡

 澤田氏はこのように、世界各地での縄文人の足跡らしき史実を丹念に紹介してい
くのですが、本稿では最後に、お隣の中国との関係だけを見ておきましょう。

 中国南部の長江流域では、1万5千年前から1万4千年前頃の遺跡が見つかって
おり、長江文明と呼ばれています。これは北方の黄河文明よりもはるかに古い文明
です。縄文土器を使い、また約8千年前のカヌーが発見されていて、船を移動手段
として使っていたことも分かっています。

 その末裔と考えられる少数民族が中国の西南部、ベトナムやラオス、ミャンマー
と境を接する雲南省にいて、高床式建物、お歯黒、神話、歌垣(若い男女が求愛の
歌謡を歌う集まり)、納豆、げた、畳、仮面、鮒(ふな)すし、赤飯など、日本と多
くの文化的共通点を持っています。

 北の黄河流域で、実在が確認されている最古の王朝は殷(いん)で3500年ほど前か
ら約500年続いたとされています。「殷」とは、次代の周王朝がつけた蔑称(さげす
む名)で、本来の国名は「商」でした。

 商の人々はもともと東海海岸諸民族の一支族とされ、古くは東方にあって「夷」
と称していました。土着の中国人ではなく、東方からやってきた異民族だったので
す。夷系の種族は多く、後漢書東夷伝には九つの種族が記されています。その中の
一つが、商を打ち立てたのです。

 中国大陸の東海岸に、縄文人たちと同じ民族集団がいたとしても、彼らの高度な
航海術を考えれば、何の不思議もありません。

 商の時代の遺跡から出土する古代文字を「甲骨(こうこつ)文字」といいます。亀
の甲羅や牛の肩甲骨に刻みつけた、漢字の原初の形態です。古代漢字研究の第一人
者、白川静・立命館大学名誉教授は、「商王朝の成立には、日本の古代王権の成立
事情と極めて相似た傾向が認められる」と指摘されています。

 その「似た傾向」として、天地創生(天地開闢)以来の神話をもち、その神々の
子孫として王統譜(王の系統)が構成されていること、子安貝や玉器を霊的なもの
として珍重すること。そして文身(いれずみ)の習俗ががあることを述べられ、「よ
その国とは思えないほどよく似ている」とまで言われています。[澤田、p159]

 よく似ているのは、同じ文化を持つ同じ民族だったから、と考えるのが合理的で
しょう。こうして見ると、縄文人たちは揚子江沿いには古代文明を築き、黄河沿い
では商王朝を開いて、中国史に足跡を残しています。

 私は常々、『論語』や老荘思想などの古代中国の精神文化には、日本人にとって
極めて親しみやすい、相性の良さを感じるのに、時代が下るにしたがって理屈っぽ
い朱子学や皇帝独裁など異質になっていく、と感じていました。それも、古代中国
の文明にはもともと縄文人たちが深く関与していた、と考えると、その理由が納得
できるような気がします。

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