- 「史記」などで語られるチャイナの歴史は、「易姓革命」という思想で成り立っている。
徳が失われることにより天下が乱れ、そこに徳を持った別の人物が現れて新たな支配者となる、というのが「易姓革命」で、天命によって姓が変わるという考え方である。
ところが実際のチャイナの歴史では、徳の有無というより、異民族による支配と隷属のオンパレードである。そうなるのは、理由があると思う。
「徳による革命」を民衆の立場から見ると、それは社会全体の繁栄よりも、如何に自分の姓(自分)が強くなって富を蓄積するかであり、それが当然に人生のビジョンとなる。国が乱れたら自分の姓(自分)も覇者になれるのである。それが天命なのだから、徳と(富の)蓄積はりっぱな正義である。ところが、徳を積むということはりっぱであるが、これは腐敗の温床にもなる。この「腐敗(富)」が拡大して支配者のそれを超えてくると、全体の統制がとれなくなり、社会は責任者という中心を失い崩壊する。これでは異民族が侵入してくるのは当然だろうと思う。
侵入者にしてみれば、征服が天命だということになるので、大手を振って襲いかかってくる。それを既存の知識人達がこぞって迎え入れるという、おぞましい光景が展開するのが、チャイナの歴史ではないだろうか。何しろ、人は天命には逆らえないのだ。 - それはさて置き、重要なのは、チャイナでは革命が起こりやすい社会規範になっているということだ。姓つまり一族内には儒教的な思想があるかも知れないが、個々の姓を超える社会規範は希薄となる。「易姓革命」という民族のアイデンティティーは、ある意味、姓同士の相克の世界であり、無法化と同時に、社会の浄化と活性化につながっているのかも知れない。
- ところが、この易姓革命のチャイナの歴史に激変が起きた。共産主義者・毛沢東の登場だ。
毛沢東の毛沢東語録の世界観は、易姓革命とは異なる。なんと、彼の究極の主張は「造反有理」なのだ。これは易姓革命の逆を行く思想である。造反が全てに優先する「理」を持つので、その点で天命や徳を否定している。姓も否定している。天命に挑戦するというギリシャ神話のイカルス、小さな人間の大それた反逆、それが造反有理である。
これは天・造物主に取って代わる人間の登場であり、まさしく、ニーチェの「神は死んだ」の世界である。造反有理は、言ってみれば、膨れあがった人間(個人)の自己肯定感であり、陶酔の世界ではないだろうか。「我思う故に我あり」の次のステップかもしれないが、しかし、極めて暴力的であり、神を呪うが故に、まぼろしのステップとなる運命にある。
毛沢東の登場で、ついに人間が天・創造主を否定してしまったのだが、これは一体何なのだろうか?
自分が世界の主役だと信じ込んだ人間の登場であるが、彼にそんな自由が許されるのだろうか?「造反有理」が互いに激突したときには、答えが準備されていない。当事者同士の殺し合いしか解決の方法がないのではないか。造反する人間には主観的な「理」があるのだろうが、自分以外の「理」は否定しているのだから、そこでは「他人」との共存はできない。自分では気付かないかも知れないが、がらんどうのひとりぼっちの世界でしか実現できない思想なのだ。
共産主義者・毛沢東は、カネ(資本や富)も否定している。カネが否定されている点では、社会が役割によって人の存在を決定するとしたヒットラーの全体主義「ナチズム(国家社会主義ドイツ労働者党)」とよく似ている。しかし、決定的に違う。
「造反有理」は通常のファシズム・全体主義とも異なり、憎しみの哲学なのだ。社会での役割という考え方が無いので、人のために、人民のために、という視点も欠落している。「造反」するものだけの世界であり、盗人が金持ちを悪だと否定して襲う世界である。何も持たない自分を中心として、持てる者を全て否定してしまう殺人と狂気の思想なのだ。そして、殺戮(権力闘争)の後に、一人の人間が頂点に立った。毛沢東である。そして、神格化されるに至る。
「造反有理」の、憎しみに駆られた人々によく似た状態の人間が聖書に登場する。鯨に飲まれたヨナ、悔い改める前のヨナである。
ちなみに、日本はファシズム国家であったことはない。ファシズムとはカネを否定することが思想の根幹にある近現代的な概念だが、日本は「八紘一宇」が国是であり、これは国民皆家族という日本古来の平和な思想に過ぎない。また、支那事変が拡大すると大政翼賛会ができて戦争体制になっていくが、これはABCD包囲網で追い詰められた結果であって、ファシズム的な思想から出てきたものではない。
「造反有理」の毛沢東の対極にある存在が天皇で、天皇は無私であるというのが日本の2千年の歴史である。 - 幸いなことに、毛沢東の後には、鄧小平が登場する。「白ネコも黒ネコも、ネズミを捕るネコがいいネコ」であり、資本家も富の蓄積も否定していない。さすがに徳の高さを第一に置くことはなかったが、少なくとも、「造反有利」の文字は消えた。「天命」を口にしてはいないが、「天」の否定は終わったのである。毛沢東の神格化も否定されていく。
「ネズミを捕るネコがいいネコ」は、これだけでは「社会の役に立つ者」を意味しているだけなので、ヒットラーのナチズムに近いものになる可能性がある。例えば軍人は社会の役に立っているが、金儲けには無縁だ。カネを持っているものが偉いんじゃないというのがナチズムの主張である。
共産主義者・鄧小平は人民服を着ているが、実態は客家の棟梁であり、彼が育てた江蘇・浙江財閥の隆盛をみればわかるとおりの、強烈な青幇の頭領でもある。つまりは、彼の実態は、徳(富)を施すことで成り立つ易姓革命的な軍閥のそれに近い。力の強いものが世の中を支配するという世界でもある。彼の力は人民から与えられたものではなく、「天(神)」から与えられたものなので、人民の意向には左右されないし、彼は天に代わって人民を支配することが許された特異な存在となる。人々(人民)は彼の言うことを聞かなければいけない。 - 共産主義の行き着くところがこれである。共産主義では共産党独裁という言い方をしているが、つまりは、易姓革命の「天」を共産主義理論に置き換えている訳である。ただ、天の「徳」ではなく、階級闘争史観に基盤を置いている点が違う。階級闘争とは、労働者階級が「有理」だとすることなので、「造反有理」という破壊思想に半分軸足を掛けており、姓を否定しているところが易姓革命と異なる。
共産党独裁という個人の自由と平等を否定している社会で、一部の支配者層だけが自由にやれて、富を独占している姿は、チャイナ歴代の征服王朝の姿と似ている。これが、習近平ほかチャイナ共産党幹部が一族をして、巨大な蓄財をしている(日本人にとっては)珍奇な現象につながる。 - そういう先祖返りのチャイナであるが、貧富の差の拡大、一部の支配層に富が集中するという歪みの解決を迫られてもいる。チャイナは、この問題を解決できるだろうか?
易姓革命によれば、皇帝が滅びるのは、次の徳なるものの出現によってだが、再度、毛沢東・文革が出現することによっても、貧富差拡大の社会的歪みは一挙に解決できることになる。
そんなこと起こりえないと思われるかも知れないが、そうとも言い切れない。
先進国では小型「造反有理」の左翼・リベラルが、人々の不満に火をつけて回っている。それがSDGsであり、例えばフェミニストである。チャイナにおいても、富の独占はおかしいと誰かが煽動すれば、顔の無い大衆の憎しみに火がついておかしくないと思う。 - チャイナの常識、世界の非常識
易姓革命と並び、もう一つチャイナ精神を代表するものに、孫子の兵法がある。孫子の兵法では、敵を出し抜き、欺き、自分の損害を最小限にするためには正面から当たらずに敵を自滅させること、敵を分断して内部崩壊させることが最良の戦略であるとしている。
チャイナ共産党だけでなく、チャイナの政治やビジネスの手法は、ウソで敵を欺く孫子の兵法流である。「騙されるのが悪い」というのがチャイナのルールであるが、彼らの盗人行為や分断工作に騙されてはいけない。
コメント